ソーシャルフィクションについて
昔から、SF=サイエンスフィクションじゃなくて、SF=ソーシャルフィクションというジャンルがあればいいのに、と思っている。
サイエンスフィクションは、技術や時代設定が未来的で進歩的なフィクションだと思ってるけど、アニメでも映画でもゲームでも定番のジャンル。
だけど私は、以前からなかにはソーシャルフィクションとでも言うべき、社会構造や社会システムが、科学的ではない形で(あるいは科学的なだけではない形で)、現実とは違っている設定の作品があると思っている。
最近観たものだと、ログ・ホライズンなんかが好みで、ドキドキしながら二期まで観た。
つまり、現実世界というオリジナルを持ちながらも、突如ネットゲームのような世界に入り込んでしまうことで、ネトゲ世界のシステムや常識に、現実世界の常識を持った人々が折り合いをつけていく作品(と私は解釈している)だ。
そんなの、ファンタジー作品はすべてソーシャルフィクションではないか?と思われるかもしれないけれど(実際ほとんどその通りだと思うんだけど)、面白い!と思うポイントは作品中に異なった社会感同士の衝突や葛藤、齟齬があることだと思う。
もし、ログ・ホライズンが「大地人」の、つまりもともとその世界にいた人たちだけの話であれば、それは社会システムそのものには疑問を差し挟む余地がない。
冒険者たちがリアルワールドの常識と感覚を持ち込んで、作り上げられたものとしてのネトゲ世界を鑑賞し干渉していくところに面白味がある。
そこでは、冒険者たちのもとの世界も、作られたはずのネトゲ世界も、どちらも所与のものではなくなって、問いにさらされる。
どっちのシステムがほんものなのか?
そんな中で驚異の順応性(笑)を初っぱなから持ち合わせてる廢人プレーヤーたちが、世界への解釈と分析をもとにわりと楽天的に新しい場所で生まれる社会問題に対応しようとしているところが面白い。
ネトゲそんなにやったことないけど、世界観が、リアルとネトゲ世界の相互干渉が作り込まれてて、謎解き感もあってよかったです。
同じような異世界への異動ものでも、デジモンとかレイアースとかと何が違うかと言われれば、彼らが異邦人として客人としての存在だったのに比べ、冒険者はそこがネットの虚構世界から触れて感じられる自分達が暮らしていき構築していくべき世界だったということ。
もちろん大地人の土地であるともいえるけど、プレイヤーとして主体的に関わってきた経緯から、そもそもの大地人=NPCはただのモブで自分達が主役だと認識していたという巧妙な意識のずれがある。
そこがまた面白いところなんだけど。
自分でもちゃんと定義付けしている概念ではないので、たぶんふたつの異なった社会常識が混在していない作品じゃなくても多くのものがソーシャルフィクションの側面を持っていると思う。
ただ、私たちの常識を問い直すような、ちょっと異なったシステムの社会を考えた作品が好きだなあということです。
キノの旅なんて、それを調手短に大量生産するネタ帳みたいなものなんだし、一話をぱくって肉付けすれば面白そうなのにね。
ただあれはキノっていう観測者がいるから成り立ってるような気もする。
まとまりなくなったけど、徒然なるままに、このへんで。
最近聞いている音楽とか
ふしぎなもので、文章というものを無性に書きたくなる時期がたまにやってくる。
内容はいつもばらばらで、その度に、新しいblog立ち上げては、2・3記事を更新し、忘れていく。
その度に伝えたいもの吐き出したいものは違うので、文調は全く違うものになって、いったい誰なのかわからなくなる。
逆に言えば、趣向も伝えたいことも変わりゆく過程にあって、未だ形を成していないからこそ、書くという行為によって確かなかたちを取りたいという欲求がうまれているのかもしれない。
さて、かなり長い間趣味文章の場を放棄してきたけど、ここ数年で音楽の趣味がすこし変わったので書き留めておこうかと。
一昨年くらいに、音ゲーなんて全くやったことなかったのだけど、deemoというスマホゲーを始めて、音ゲーの曲ってこんなにいいのかー!と感銘を受けたことがきっかけ。
そこから同社のcytusとかコナミのグルコスなんかをやって(まああと流行りに流されすくフェスとか)、もともとゲームよりゲーム中の音楽にドはまりしてしまうタイプでしたので、最近この辺のゲームの楽曲制作者の音楽を漁っている次第。
その前から、大学での研究テーマの影響でワールドミュージックを聞きまくってたんだけど、同時にやっぱ電波ソングとかゲームミュージックとかのラジオとかも聴いてた。
そもそもエロゲよりエロゲソン、ゲームよりゲーソン、アニメよりアニソンで曲漁りをしてきたので、音ゲーより音ゲソンになっていくのは明白だった……。
そもそも電波ソングもポップンとか太鼓から探してきてたこともあったしな。
ひとつ言うならボーカルソングが苦手になったきがする。
Uたまとかしゃおり、のみこ、とろ美あたりの声そのものが好みなタイプを除いて、メロディラインや編曲が好みでもおなかいっぱいになっちゃうことが増えた。
年齢と共に揚げ物が食えなくなるのと同じで、ちょっとカロリー高そうな音楽を受け付けなくなっていくのだろうか…。
最近のお気に入りは、cytusで知ったkiryuのquest.というアルバム。
全体的に切なげな曲が多くて、とくにForget Me Notはもうウォォォォォォってなりながら聴いてる。
3:58あたりの1、2秒を聴くためだけにリピートかけまくる。
SoundCloudで知ってた曲が半分くらいだったけど、ほんと買ってよかった。
ちなみにクリスマスプレゼントにもらった。自分に。
そんなわけで、また気が向いたらつれづれに書くかもしれない。
台湾セブンイレブンのポイントを集めてなめこグッズをもらう日記。
淡水街歩きと、空間と展示の意味について。
十三行博物館
国立台湾博物館、台北二二八記念館
ミュージアムブログのようになっている!
現在台湾におりまして、台北のミュージアムふたつばかり感想を。
まず、国立台湾博物館。
MRT台北車站から徒歩で行けます。
この博物館、ちょっと変わっていて、私が行った2013年6月1日時点では、3つの企画展と生物、「原住民」、などの展示がいくつかのフロアに分かれてありました。
企画展は、いわゆるチャイナドレス、旗袍(チーパオ)と呼ばれる衣装の変遷の展示と、海洋生物の展示(あんま見てなかった!)と、生物の閉じ込められた琥珀の展示。
ちょっとなんか情報過多だしジャンルも謎!って感じでした。
展示の雰囲気は、「博物館」的な、珍しいものを見世物的に展示し、知識をカタログ化して並べるといった感じ。
さて、情報の多さには疲れてしまったのだけど、面白いと思ったのが3Fにあった小ぢんまりとした本建物の沿革展示。
日本統治時代の台湾の第4代総督児玉源太郎と当時の民政長官後藤新平両名を記念するものとして、1915年に建てられたそうだ。
日本統治時代に建てられて、そのまま別の施設として使われている建造物はいくつかある。というか、取り壊さずに歴史的痕跡として残してある場合が多い。
これまで他者からの目線によるものであった「歴史」を、自身の目線で、つまり次々と所有者と統治者が変わりその度に翻弄され変化し融合させていった台湾の目線で、描いているようだ。
自分の色で塗り替えようにも、自分の色はすでにいろんなものが混じった色で、でもだからこそ複雑で曖昧で独特な色といえるのかもしれない。
二二八記念館。
こちらは、二二八平和公園内にあって、二二八事件のなりゆきを詳しく見ることができる。基本繁体字と英語で、たまに日本語もあった。
建物自体は、二二八事件の起こった当時、民衆が占拠したというラジオ局だったようで、展示の一番初めにラジオ放送の重要性が強調されている。
民衆運動とメディア。今ではフェイスブックがその役割を担っているのかな。
二二八事件は、結果的に政府による鎮圧によって幕引きを迎えて、多くの知識人と呼ばれる人たちを失ってしまう。この事件をどのように「台湾人」が位置づけるのかを見るのに、とっても重要な場所だと思った。
メディアと結び付いた抵抗であることを強調する点、最終的に「平和」を願う点が、印象的だった。
ミュシャ展/JR展/目黒寄生虫博物館
なんとも物騒なこの組み合わせ。
2日で3つも展示を回るというのは、情報が頭に入りすぎているような気がする。
あと、食べ合わせが悪そう。
このお腹がもたれそうなラインナップのレポが本ブログ初の記事です!
現在、森アートギャラリーで行われている「ミュシャ展」。すげー混んでた。
私がミュシャを初めて見たのは、中学生の時で、その頃はうわぁキレイだなあと思っていた。
もちろん今もキレイだなあ、と思うのは変わりないのだけど。
ただ、昔は、『四季』とかのシリーズものや、特徴的な枠取り・蔦のような髪・なめらかで曲線的な雰囲気が好きだったのに比べ、今回は整っていて美しく完成された中から漏れ出しているような生々しさとかに目がいった。
女性の裸体や乳房の露出した絵画は、美術に明るくない私でも分かるほど、よくあるモチーフだと思う。
でも、裸体とか乳房とか局部とか、見ようによっては春画なわけで。
私は、なんでミュシャの描く裸体は春画に見えないのか!?を一生懸命考えていた!
なぜ、少女の四肢が切断されたり、局部からイクラが出てるよーな絵はわいせつだと言われるのに、ミュシャの裸体はいかがわしいと思われないんだろう?
そこには、共有されている「いかがわしい裸体」と「いかがわしくない裸体」の区別があるのかもしれない。
そう考えると、裸体だからってなんでもかんでも「いかがわしい」のか?
むしろ、「いかがわしい」と思う人が、そのイメージを、「いかがわしいものだ」と同定しているのではないのか?
この意味で、エロいって言うほうがエロいんだ!ってのはかなり名言に思えたのでした。
さて、つぎにJR展。
これは、ワタリウム美術館で行われている。6月30日まで。
「世界はアートで変わっていく」というサブタイトルに惹かれて行ってみたのでした。
アートとか、文学とか、物語とか、いわゆる「娯楽」や「趣味」に分類されてしまいがちなこれらのものは、実際の社会や人びとに影響を及ぼさないんだろうか。
「人文学部」のような所に進んでしまった人は、4年間を全く社会やビジネスに役立たない知識をたくわえることに費やし遊びかき暮らすだけ、なんだろうか。
こんな葛藤に近い疑問を抱く人にとって、「アートで世界を変える」!なんて、刺激的すぎる言葉に思える。
3つのフロアと、建物自体の壁に「展示」は分かれている。
だけど、「展示」というよりは、見ている人を「参加者」として強く誘う、という点で、JR展は「展示」というよりは「アクティヴィティ」のようだと思った。
実際、最後のフロアでは、訪問者自身の顔写真を撮影し大きく印刷してくれる機械があり、JR展に「あなたが参加する」ことになる。
自分が、プリントされた自分自身の顔を、なにかを伝えようとするまなざしをたたえた顔を、ストリートというミュージアムに展示するところまで含めて、「JR展」なんだろう。
「展示」されている、いろいろな場所に住む人びとのポスターは、「あなた」が「JR展」に参加するための先駆者でありモデルであり。
「あなた」が参加してこそ「JR展」は完成するのです!とでもいうのかな。
ちなみに、展示されているポスターはどれも「目」ががっちり見る者を捉えて離さない。
まるでポスターに見られているかのようでした。
「わたしのことばを受け取れ、そしてあなたもことばを発するのだ!」というような。妄想しすぎかな。
ちなみに私は勇気がなくて自分のポスターすら作れなかった。
今になって、撮っておけばよかったと思っております…。
さいごに、寄生虫博物館について少し。
順番的には、ミュシャ→寄生虫→JRだったのだけど。
やっぱ、サナダムシの話は閑話休題っていうより、オチかなって。
8メートル強の、サナダムシさんの標本が飾ってありました。
「けしてランチに麺類は食うまい…」
と固くその場で思ったのだけど、その後JR展に行って、すっかり忘れてパスタを食べたのであった。
途中で、「あっ、麺類はやめようと思ったのに…」って気付いたのであった。
思ったことは、お肉や魚は、十分加熱してから食べよう、ということです
寄生虫見ながら、結局食うことしか考えてなかったという。はい。